参考:「不動さま入門」(大法輪閣)
あ行
か行
火生三昧(かしょうざんまい) お不動様の背後において常に火焔光を背負っている状態。衆生の宗教的無知を焼き滅ぼす智慧の火光。
眷属(けんぞく) 随順する者、取り巻き。お不動様の働きや功徳を表す。
羅索(けんじゃく) インドでは古くは戦闘具を意味したが、不動明王においては慈悲を表す。 元来は「羅」とは狩猟の縄を言い、「索」とは魚釣りの糸を指す。頑固で救いがたいような衆生を引っ張って救済する道具である。
迦楼羅炎(かるらえん) 大智火とも呼ばれ、外道・異端を制し、衆生の煩悩(貧・瞋・痴)を焼き尽くす炎。上部が鳥の形をする。
加持祈祷 (かじきとう) 真言密教特有の言葉であり、加持とは如来の大慈と衆生の信心を意味し、祈祷とは祈りを意味する。すなわち加持祈祷とは真言密教独特の法力によって、仏と信者が一つに溶け合う祈りを言う。
コンガラ童子 体の色は、白でお河童頭、穏やかな顔をする。お不動様に従い、命ぜられたことは何でもする。お不動様の慈悲の心の働きをする。智慧の徳を司る。
護摩(ごま) 梵語でホーマと言い、「焚く」とか「焼く」とかの意味の言葉。仏の智慧の火をもって煩悩を焼き尽くす宗教儀式。本尊の宝前に設けられた護摩壇の周囲に香華をはじめ五穀、供え物をそなえ、斎戒沐浴(さいかいもくよく)して心身を浄めた修行者が、中央の炉の中に護摩木を焚いて、本尊の供養をする密教の秘法。
降魔の剣(ごうまのけん) 不動明王の智慧と力のシンボル。倶利迦羅剣(くりからけん)とも称し、クリカラ竜が刀にまきついているものもある。高野山竜光院の倶利迦羅剣は有名。クリカラ竜は八大竜王のひとつで、古くインドの叙事詩「マハーバーラタ」に出てくる。竜は、インド固有の毒蛇コブラであり、智慧の象徴である。剣は理知の象徴であり、少しの妥協も許さず裁断することを意味する。正しきものは賞され、不正なものは必ず罰せられることを意味する。
教令輪身(きょうりょうりんじん) 益々仏法から遠ざかってしまう迷える衆生の反省を促す姿。明王のこと。
ご詠歌 古代万葉花山法王の御代に西国三十三箇所霊場を巡拝する際、お堂に奉納された和歌を 詠み返すうちに自然と生まれた、霊場に流れる旋律。これには三十一文字(五・七・五・ 七・七)の和歌で作られた「詠歌」と、七五調の歌詞にメロディをつけた「和讃」が ある。一般にこの二つを総称してご詠歌と呼ぶ。その内容は、仏様を讃えるもの、 仏様の教えや寺院行事をやさしく説いたもの、亡き人の菩提を願うものなどが 多い。
さ行
折伏(しゃくふく) 仏道に導きがたい剛強難化の衆生を押さえつけること。
四摂方便(ししょうほうべん) 仏が衆生を導くための手段であり、布施、愛語、利行、同事の四つの実践を内容とする。
摂受(じょうじゅ) 押さえつけた衆生を救い上げること。
種字(しゅうじ) 仏菩薩などを表す場合の梵字。不動明王では「カンマン」の2字。「カン」とは智慧の利剣を、「マン」とは慈悲の羅索を表す。
常住金剛(じょうじゅうこんごう) 人々の菩提心が常住(堅固な信仰)なことを指す。
セイタカ童子 体の色は紅で、髷(まげ)を結んでいて、金剛棒を持って怒った顔をしている。お不動様に従い、命ぜられたことは何でもする、お不動様の方便(便宜上の手段)の働きをする。福徳の徳を司る。
修験道 古来霊地として畏れられていた山岳に入って修行した奈良時代の咒術修行者の活動に淵源を持つ宗教 であり、その目指すものは釈尊の悟りの境界(境地)。 開祖は役小角(えんのおずぬ)であり、神変大菩薩 とも呼ばれる。役小角は、葛城山や金峰山で修行し、孔雀明王の咒を唱え、鬼神を使役したとされる。 小角が、金峰山で自己の守護神を求めて祈請したところ、岩上に釈迦、観音、 弥勒が次々に現われたが、 いずれも柔和な姿のため満足せず、さらに祈りつづけたところ、最後に忿怒の相をした火焔を背負った 金剛蔵王権現が出現したが、これこそ自分の求めていた仏と喜び、これを自己の本尊としたとの 伝説が広く知られる。平安時代になると密教の験者(げんざ)もしきりに山岳修行を行ったが、 これらの験者のうち特に験力(超能力の獲得)を修めた者が、修験と呼ばれた。修験は、熊野、吉野など山岳を 拠点として次第に広がったが、中世期には熊野を拠点とした本山派と、吉野を拠点とした当山派という宗派 が作られ、平安末期から鎌倉時代になると修験道においてしだいに不動明王が中心的な崇拝対象になり、 三井寺修験の祖の円珍、比叡山に修験行を導入した相応、熊野那智の滝で修行した文覚などの不動明王信仰は 特に有名となった。やがて室町に於いては不動明王が、金剛蔵王権現に取って代わり修験道の本尊の位置を 占めるようになるのである。
自性輪身(じしょうりんじん) 万物を包含し、あらゆる徳を備え、自身完全な位に留まっている姿。法身仏(仏陀)のこと。
正法輪身(しょうぼうりじん) 衆生と共に苦楽を共にして、その身近にあって法を示し、導いてくれる姿。菩薩のこと。
衆生(しゅじょう) 仏教に於いて生けるものすべてを指す。
十界 如来、菩薩、縁覚、声聞、天、人間、阿修羅、畜生、餓鬼、地獄 の十の世界。そのうち前者5つが、悟りの境地であり、後者5つが、迷いの境地である。

如来=自らも悟り、また他をも悟らせつつある状態。自他平等の状態。
菩薩=他と共に悟りを得ようとして願を起こし、修行している状態。初めて自己を超えた状態。
縁覚=生活の中から一人悟りを見つけ出した状態。生活者。
声聞=教えを聞くことにより真理を学び取ろうとしている状態。学生。
天=求めることはすべて充たされた最高の状態であるが、なお苦を免れない。
人間=堕落することもできるし、悟ることもできる、そういう「間」的状態。地獄と仏の間、人と人の 間、生と死の間を意味する。
阿修羅=嫉妬心が強く、常に不安がつきまとい争いばかりしている状態。
畜生=互いに他を餌食として生き、自己しか見えない状態。
餓鬼=飲食が得られぬため苦しみが止まない状態であり、常に欲求不満の状態を指す。
地獄=極苦処とも言う。生きていることすべてが苦である状態を指す。
た行
同事 それぞれの人に同じ姿をとって一緒に働きながら教化すること。
大磐石(だいばんじゃく) 石や山のように浄菩提心が堅固である様、ヒマラヤ山に例えられる。
童子形 お不動様のお姿。お不動様は、頑健な青年の姿をしている。これは、如来に奉仕し、信者の願望をかなえてやるという態度を示したもの。
な行
七莎髻(ななしゃけい) 頭髪が七つの束になっている状態。七覚支(ななかくし)(択法・精進・喜・軽安・捨・定・念の悟りに到るに役立つ七つのやりかた)の象徴とされる。インドにおいて「七」とは再生または永続性を意味し、不動明王が、七つに髷(まげ)を結ぶのも大日如来の教令輪身(使者)として永久に給仕し、無限に慈悲の活動を続けることを示す。
如来 仏陀(覚者)の別名である。偏袒右肩(へんだんうけん)の出家姿で 開敷蓮華座(かいしきれんげざ)に結跏趺坐(あぐら)する。如来が、開敷蓮華座にあぐらをかいている理由は、すでに悟られ、 完全に開ききった蓮華と同じ状態であることを意味するからである。
は行
不動(アチャラ) 不動堅固の菩提心。悟りを求めて実践する決意が確固たる様。
不動明王 不動威怒明王(ふどういぬみょうおう)、また不動尊、無動尊をも言う。インド古典語ではアチャラ・ナータと言い、アチャラとは動かないことすなわち山を意味し、ナータとは尊と訳されるが、主人公を意味する。ヒンドゥー教のシヴァ神の別名である。インドでは「不空羅索経(ふくうけんじゃくぎょう)」第9(709年訳)で初めて説かれ、7世紀後半「大日経」においても登場。中国、チベットでも登場するが、特に日本において昔から不動信仰が盛んであった。古くは空海が唐から請来した経軌の中に「不動使者秘密法」があり、空海の他、円珍(智証大師)、比叡山の相応、文覚など密教系の人々によって修法の対象として積極的に取り上げられた。不動明王は、八大明王または五大明王の一つに数えられ、明王部の総主であり、主尊に位置づけられる。単独ではコンガラ童子・セイタカ童子の二童子、あるいは三童子、四童子、五使者、十二者、三十六童子、四十八使者など眷属を従えている。その御尊容は、一般的に肥満した童子形で憤怒相を示し、身色は赤・黄・青黒色のいずれかである。頂には七莎髻(ななしゃけい)のあるものと頂上に八葉の蓮花を頂くものがあり、左方の肩に一弁髪を垂れ、顔の額には水波の皺を持つ。目は左眼をかすかに閉じ半開の右目で睥睨しているものと、両目をかっと大きく見開いているものがある。右目半開のものは、二牙を上下に突き出し、両目を開いているものは、二牙を上また下に突き出し、双方とも口は閉じて下唇の左のほうを外に翻している。右手に利剣、左手に羅索を持っている。遍身に火焔を出して、大磐石の上に座す。この仏様は、人の上に立ってあれをせよ、これをせよとあごで命令するのではなく自分で先立って積極的にどんな仕事でも片付けてしまうところに特徴がある。
弁髪 頭髪を編んでたれること。お不動様は、左側に弁髪を1本垂れているのが通常。これは親が一人子を愛するように一切衆生を愛することを意味する。
左眼を閉じる(不動明王) 左道すなわち天魔外道を断り、仏の道に衆生を引き入れることを意味するとか外道を恐怖せしめるためとか言われる。
額の皺(不動明王) 他の仏菩薩には見られない不動明王の大きな特相である。これは奴隷労苦のあらわれでもあるが、六道の一切衆生が生死流転に沈んでいるのを憎愛親疎のへだてなく平等に深く憂い悲しんでいる慈悲の相である。
仏性 人は誰でも無限に向上する能力を持っているという仏教の教え。
奮迅忿怒(ふんじんふんぬ)の相 お不動様のお姿であり、外では魔障を滅ぼし、内では煩悩を滅ぼすことを表す。
菩薩 菩提薩たを言う。すばらしい智慧で覚を求め向上しようと努力し、愛情即ち 慈しみを以って有情(迷える衆生)を導こうとする慈悲の相である。温順で上半身裸体、下半身に 裳をはき天衣を纏い、宝冠を被り未敷蓮華座(みしきれんげざ)に結跏趺坐(あぐら)をする。菩薩が未敷蓮華座にあぐらを かいている理由は、菩薩自身が迷える衆生と運命を共にする存在であり、未だ完全に開ききっていない 蓮華と同じでようであることからである。
菩提心 仏果菩提(仏の境地)に至り、正覚を成そうとするすなわち 悟りたいとする心。
ま行
無明  宗教的無知
明王 「明」とは理知の意味であり、「王」とはそれを管理する方を言う。
や行
厄年 男性の25歳と42歳、女性の19歳と33歳が本厄で、その前後がそれぞれ前厄、後厄。そして、さらに、男女とも還暦の歳、すなわち60歳が厄年に当る。厄年の数え方には「数え」で行う場合と「満年齢」で行う場合とがある。たとえば生後六ヶ月の幼児は、「数え」では、1歳であるが、満年齢では当歳(0歳)。満年齢では1年間の満了をもって1歳となる。寺においては「数え」で厄年を数えるところと「満年齢」で厄年を数えるところがあるので注意。ちなみに川崎大師は、「満年齢」で厄年を数える。
ら行
六趣(ろくしゅ) 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の衆生輪廻の生死の世界を言う。
六度(ろくど) 布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の修行のことであり、 六波羅蜜(ろくはらみつ、迷いの此岸を捨てて悟りの彼岸〔ひがん〕に至るための6つの行=菩薩行)とも言う。

布施(ふせ)=ほどこし。
持戒(じかい)=戒律を守る。
忍辱(にんにく)=たえしのぶこと。
精進(しょうじん)=熱中すること。
禅定(ぜんじょう)=心動かないこと。
智慧(ちえ)= 鋭い思索をめぐらすこと。
六道(ろくどう) 衆生が辿る輪廻の世界であり、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天 の世界。
利行 衆生を利益するあらゆる行動。